苦しくて哀しい、声を聞いた。

地面に伏したまま振り絞った、微かに空気を震わせる音。

愛しい人の名を、呼ぶのか。

不意にそんなことを思って。
あぁ、前にも一度。と。


血の匂いがする闇の夜。
頭が回転を早め、過去の記憶を手繰る前に。
振り降ろした刀で。


その声を、命を、絶った。





cloudy sky






「どうか、なさったのですか」

小萩屋の朝。
箸を置いた、遅めの朝食の膳を横へずらし、先程から空ばかり見上げる彼の方へ 膝を向けた。
今日の窓から見える空は曇り空に少し薄日が射す程度で、取り立てて眺めていたくなるような ものではない。
それを彼は、朝から飽きもせずに眺めている。

「…いや、何もないよ」

視線すら動かさず、応えた彼の心はここにはない。

「…何もないようには見えないので、お尋ねしたのですが」

繰り返した問いに、今度は一目私の方に目をやって。

「…巴さんには敵わないなぁ」

やっぱり、空を見上げながら力なく笑った。
何処か遠くを見つめたまま。



いつもより少し遅めの明け方前に帰って来てきてから、朝食も摂らずに窓辺に 座ったきり動かない彼。
きっと空なんて映していない横顔に、心が、軋むように痛んだ。

優し過ぎる彼が、狂に囚われて。
未来の幸せと引き換えに、その心を壊していく。
それは、復讐を望んだ私の心にさえ、哀しみの色を滲ませる程の。



「貴方には、狂気を収める鞘が必要ですから」

あの時には気づかなかったけれど。


鞘になる、ということは。
壊れそうな刀を守る意味もあるんじゃないか、なんて。

身勝手だと思いながら、それでも生まれた想いは心に沈んで消えることなく。


けれど。
こうして彼が苦しんでいても、今の私にはどうすることも出来ない。
相変わらずの彼をみて、溜息が零れても。


今の彼には、届かない。


私は、鞘となることを、決めたのに。



「少し、お休みになったらいかがですか」

「あぁ」

「お腹、減ってませんか」

「あぁ」


「・・・私の声は、ちゃんと貴方に届いていますか」

「あぁ」



一度も目を合わすことなく返ってくる言葉に、胸が苦しくなる。


「それなら、こちらを向いて下さいな」

彼の答えを待たずに、その肩を優しく抱いて。
腕の中に収まった赤い髪に額を合わせた。


「・・・巴さん?」


震える腕に手を添えて、彼が身じろぐ。
触れた肩も髪も、外の風にさらされて冷たくて。


「震えてる。・・・大丈夫?」


先程より幾分か優しくなった声色。


「大丈夫でないのは・・・貴方の方です」


例えば、触れ合って体温を分け合うように、貴方の痛みを、私にも。
せめて、独りで闇に囚われてしまわないで。
そう、願って。


「・・・すまない」


その声が、心を込めた色をしていたから。
ゆっくりと腕を解いて、彼をみれば。

目が、あって。

ただそれだけのことに、涙が零れてしまいそうで。
私は、濡れた瞳を隠すように、また、彼を抱きしめた。








初出20100227 / 修正・改題・再掲20110423