一度目は、手を伸ばすことも声を出すことも出来なかったから。

今度は。
離さないように。
また、前と同じ過ちを、犯してしまわないように。

そう、思うのだけれど。
でも、本当は。

本当の、わたしは。






I'm home







京の夜。
静まり返った空気に、カラカラ。と戸の開く音が混ざる。
寝ている人を起こさぬように。
自分が帰ってきたことを、誰にも知られぬように。
まるで、そんな風に聞こえる。
静かに、静かに戸をあける音。
それはイコール、彼が、帰ってきた音。

肩にかけていたショールを羽織りなおし、階下へ降りる。
彼は、いつものように冷たい水に手をつけていた。
もう何度か水を代えたのだろう。
ちゃぷり。と音を立てる色は、紅くはない。


「おかえり、なさい」

ギリギリ届くかどうかの、小さな声で。
まるで、二人だけの空間にいるみたいに。
そんな声を、この人はいつも拾い上げてくれる。


「ただいま。まだ、起きてたのか」
「・・・ええ」
「先に寝ていて構わないよ。人斬りの帰りを待つ必要なんてない」

無表情にも似た瞳で、ちらりと私を見る。
「人斬り」というその言葉に、心臓がドクンと音を立てた。
先まで否応なく神経が研ぎ澄まされていた彼は、私が表情にそれを出さなくても、
感じ取るのだろうか。

「・・・君はいつも、そう言っても起きて出迎えてくれるね」

最後は苦笑して、手を拭きながら部屋へと上がっていく。
それは、「人斬り」が子供にもどる瞬間のようで。

横を通る時に香る匂いには、まだ慣れない。
だけど。
いつまでも何も言えないようでは、何も変わらない。



きっと。

言ったところで、彼は変わらないのだろうけれど。
彼は、彼の信念に従って、生きているのだから。
それに。
清里様の時の後悔を彼に託したところで、今更どうしようもないことも、
分かっているつもりなのに。

でも。

「・・・何?」

部屋へ向かう後を追いかけて、掴んだ袖は、あまりにも緩く手から
するりと落ちてしまったのに。
やっぱりこの人は、気づいてしまう。

「あの、   ・・・おやすみ、なさい」
「あぁ。おやすみ」

優しく、笑う。
こんな、わたしに。

何処にも行かないで。と言ったら、彼は困るだけで。
そんな我が儘を、言えるはずもなくて。
言える、資格もなくて。

だけど本当は。
もう、なくしたくはなくて。
言いたくて。
でも、言えなくて。

「・・・何処にも、行かないで下さい」

だから。
誰にも聞こえぬように、口唇に言葉をのせた。
それはまるで、懺悔する罪人の音のように。







『最愛の貴方へ』 01. 何処にも行かないで
初出20081116 / 修正・再掲20110103