例えば、抜けるような青い空を見上げた時だとか。

夕暮れに、幸せの香りを嗅いだ時だとか。

細く微笑う、月に照らされた時だとか。


時々。

ふとした瞬間に。



どうしようもなく、君が愛しい。





きみのぬくもり






吐く息は白く、すぐ大気に溶けて消える。

キンと張りつめた空気は切るように冷たくて、帰り道を急ぐ足を一層速めた。
遥か後方、空から月が照らす光さえ冷たく感じられそうで。
責められて、いるような気がした。

視線は足もとに黒く溜まる自分の影ばかり見て、けれど感覚は周囲に張りつめる。
後をつける気配はないか。
見慣れた景色の中に、いつもと違うところはないか。
ほんの少しの油断が、自分の未来を真黒に塗り潰すから。


はやく、かえりたい。


そこに自分の意思があることに少しだけ安堵する。
自分はまだ、自己を失ってはいないのだ、と。
そして。
やっと遠くに見えた灯りに、顔を隠す為の布の下に隠れた口元だけで微笑みを浮かべた。





「・・・ただいま」

口唇だけを動かし、誰にという訳でもなく帰宅を告げる。
薄い扉を引いて月から隠れ、零れた安堵の息に、自嘲めいた笑みが浮かんだ。
らしくない、と自分らしさが何かさえ、もう忘れかけていたハズなのに。
急に緊張の解けた身体はまるで鉛のように重たくなって。
そのまま沈んでしまいそうな、その時。

「おかえりなさい」

静寂を破る声が響いた。
驚いて顔をあげた先にいたのは、寝巻に紫のショールを羽織った、巴の姿。
何かしらの理由とともに起きて待っていてくれたことは多々あるが、下まで降りてくることは初めてで。

「今日はよく冷えているので、お湯をお持ちしました」

見れば、彼女の両手に抱えられている桶からは温かな湯気が立っている。
けれど、視線はすぐに彼女の瞳を捉えた。


ドクン、と心臓が高鳴るのが分かる。


時々。
ふとした瞬間に。
どうしようもなく、君が愛しくて。

けれど、そんな時に、君に会えないことなんてしょっちゅうで。


「・・・ありがとう」
「最初は少し、熱いかもしれませんが」


気づいていた。

帰り道、足を速めたのは寒さだけではない。
らしくない、と思うほどに焦がれていた心。

こんな状態で、彼女に触れるべきではないと、思うのに。
せめて冷えた手先を温めてから、と思うのに。



「・・・冷たい」
「うん。ごめん、巴さん」



彼女が桶を置くや否や、腕が伸びた。
ただ、抱きしめたくて、離したくなくて。


「お湯が、冷めてしまいますよ?」
「ごめん。でも、もう少しだけ」


ただただ、君が愛しくて。


小さな溜息の後。
腕の中で身じろぎした彼女に少し力を弱めれば、肩にかけたショールごと、俺を包むようにその華奢な腕で、抱き返してくれた。




扉の向こうでは、変わらずに月が輝く。




冷えきった身体はゆっくりと溶けて。
腕の中にある体温と、背中に感じる優しさに鼻の先がツンと痛んだ。




あぁ、どうしよう。

このまま泣いてしまいそうなくらい、君が、愛しくてたまらない。








初出20090905 / 修正・改題・再掲20110116